エリオット・スミスと私

 現在、無期限停止状態になってるブログサイトに以前書き込んでた文章をここに採録。かなり背筋がゾワゾワする文面ですが歴史的、資料的価値を踏まえ一切手を加えてません。



「どこまでもエリオット・スミスについて語ろう」
 おそらく僕を知っている人はここにはこないので、どこまでも自分の内面のぐちゃぐちゃを書きなぐっても良いわけだ。井戸の底に向かって声を嗄らすまで叫び続けるように。


 モチベーションが下がってきている。しばらく書かない内に、自分の書き方の癖を忘れてしまった感じがする。これまでの文章とは違った形になっている。なんとなく気に食わない。


 さてエリオット・スミスのことだ。彼がいかに素晴らしいミュージシャンだったか、どれだけ紙数を尽くしても書ききれない。かといって「気違いじみてオプティミスティックな曲」と語るsay yesに自分がどれほど救われたか、それを語ることがここの目的でもない。
 ただそれでも、これほど素晴らしいミュージシャンをみんな知らないというのはもはや罪だと、思う。kins crossingでの壮絶なまでの魂の相克。あらゆる重力から逃れた彼岸で奏でられるtwilightの、美しいという形容しか出てこないほどに漂白された世界。そしてsay yesでの形而上にまで高められた絶望からの救済という「妄想」。これを知らずに日常を過ごすことは大きな損失だと思う。ぼくは、彼を知ることができたというだけで、この人生に意味があったと断言できる極端な人間ではあるけど、ここに書いたことは偽らざる本心だ。


続く



……「続く」と書いておきながら全然続きませんでした。で江戸の仇を長崎で討つ訳でもないんですが、これに続く文章をおいおいここで書けたらなあ、と希望的観測を持ってます。では