そして、

 志村貴子氏にハラハラさせられている私ですが、そちらはどうでしょうか。ごきげんよう


 フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(何度か目の)読了。
 村上訳はとても良かった。フィッツジェラルド得意の、過剰で繊細な美麗修辞や表現が、堅苦しい翻訳ではなく、活きた小説として味わえるのがとても心地よい。なにより、小説での一番の肝である「儚さ」が巧く掬い取られているのが嬉しかった。


 相性が悪いのか、村上春樹の小説は、引っかかったり、うまく飲み込めなかったり、どう考えてもこりゃひどくないかいと思った彼の小説が海外で反響を巻き起こしてたりと、少々の反撥とズレを覚えつつ読むことが多いのだけども、一方で彼の翻訳は、レイモンド・カーヴァー始め、マイケル・ギルモア、カポーティ、アーヴィングと、とても優れているのばかり(原作が魅力的なのは勿論だけど、その作品のチャームな部分をきちんと深いところで理解し、受け止めて訳している)で、しみじみ世の中って分からないものだな、こんなすばらしい翻訳者の自作小説を批判するなんて、自分はまだまだ脳みそが足りてないジャマイカ、と思い、「翻訳夜話」を弁解のついでに読んでみる。


 すごく面白い。this is a pen を「これはペンです」から「これがペンである」「ペンだよ」「之は筆と申し候」「これがペンなのねん」「これがいわゆるひとつのペンですね」etc...と文脈からいかようにも訳せれてしまうのは承知してたけど、youをそのまま「君」「お前」「あなた」等と訳すより、省くことが多いということを知り、日本語と英語(他言語も勿論入る)との間にある深い溝にも気付いた。そういえば、自分も会話の中で相手を指すとき「君」「あなた」とははっきり言わず、「そっちは」みたいに曖昧にしている。「今日は色々しんどかったけど、そっちは」みたいに。


 もっと言えばこの日記でも、一人称はなるだけ使わないように、もし使うとしても「ぼく」「私」でなく「自分」「こちら」というように、なるだけ、存在をぼやかせようとしてる。


 閑話休題。翻訳に関しての言葉で一番気に入ったのは、高校時代の「ダ・ヴィンチ」で読んだ柴田元幸氏(翻訳者)へのインタビューで、原作者と翻訳家との確執とかは、と問われた氏がそれを否定し「原作者にとってみたら働き小人みたいなもんですから」との科白。かっこよかった。