村上春樹が

 レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」を翻訳するとのニュースを見つけ驚く


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9


 近刊、脱稿済とある。


http://opendoors.asahi.com/asahido/boston/002.html


 彼が大好き(影響を受けている)と語るカポーティフィッツジェラルドの翻訳は十分理解できたけど、基本的にそれら作品の翻訳は短編だったわけで。、、、とここまで書いたところで、「グレート・ギャッツビー」も翻訳完了とのこと。うわわあ。


 個人的にはレイモンド・カーヴァーの日本への紹介と翻訳が村上春樹の(自作も含め)最高の仕事と思ってるのですが。それにしても、チャンドラーを訳すとは意外でした。まあ、この機会にチャンドラーの存在を一人でも多くの人に知ってもらえるというのは大変に喜ばしいことです。


 ただ、村上春樹の翻訳は癖があるのです。訳者を知らないまま読んでて、なんか翻訳本らしくないな、むしろ村上春樹ぽいぞ、ああやっぱ村上春樹だったか、という経験が何度も。
 彼が翻訳した「熊を放つ」は、「ガープの世界」「ホテル・ニューハンプシャー」等でアーヴィングに嵌った人間にはちょっと毛色の違いに戸惑った作品でした。野坂昭如カポーティ「カメレオンのための音楽」みたいなもんで、それ自体は良くも悪くもないのすが。和田画伯が描くスギさんの絵よりも原作から離れたイメージを持ってしまう。


 そのへんを突き詰めると翻訳論にまで発展するのですが、それを語るにはあまりに力不足のうえたいへんに酔っ払ってます。なので、一例をあげるのみで。


「彼の隣には若い娘が座っていた。赤い髪が美しく、唇にほのかな微笑をうかべて、ロールス・ロイスが普通の自動車に見えそうな青いたちの外套を肩にまとっていた。だが、実際にそう見えたわけではなかった。ロールス・ロイスはあくまでロールス・ロイスだった」


「彼のかたわらには若い女がいた。暗い赤みのかかった美しい髪で、実のない微笑みを唇に浮かべ、ブルー・ミンクのショールを肩に掛けていた。ロールズ・ロイスがそのへんのただの車に見えてしまいそうなほど豪勢なショールだったが、とはいえやはりロールズロールズである。結局のところそれがロールズ・ロイスという車の意味なのだ」


 どっちが良いか、と二者に優劣をつけることは無意味だけど、僕の好きなチャンドラーって実は清水俊二の清潔な翻訳によるチャンドラーだったのかもしれないと、前からうすうす気付いていたことを再度突きつけられた気分です。